++Himawari Diary++

2012年02月24日の日記

母のこと3
夜になって、ようやく監察医の診断で「死因は『脳梗塞』」とわかった。
そのせいで、足元がもたついて転んだのではないか。
母が毎日つけていた日記には、1月の中旬に「お風呂で脚に力が入らなくなって立ち上がれない」というような記述がある。
そんな日が1月にもう一度あって、その頃から脳梗塞が始まっていたのでは。。


兄の話では、当日母はベッドの中央ではなく、腰掛けるような形でそのまま横になったらしい。
母は寝たまま、眠ったまま意識がなくなり、そしてベッドからずり落ちたのではないか。。


色々わかってくると、それまでの母の様子や行動が納得できるものがある。
それでも、すべてわかるわけではなく、もしかしたらもっとあぁしたら、こうしたらよかったのではと後悔することがたくさんある。

もし私がもっと早く実家へ行っていて、母のすぐ隣で寝ていたら。。
ベッドではなく布団で寝ていたら落ちたりしなかったのでは。。
いやいやもっと遡って、お風呂で立ち上がれなくなった時点で病院へ行っていたら。。
考えればきりがない。


母の遺体がもどり、葬儀屋との打ち合わせに入る。
子供として、ちゃんとしたことをしなくちゃ、恥ずかしくないようなものを。。
兄と二人、その気持ちだけでなんとかしっかりしていられたような気がする。
思えばお通夜やお葬式の準備っていうのはありがたいことなのかもしれない。
泣いている間もなく、やらなくちゃいけないことが山ほどある。

母の葬儀は家族葬(家族と兄弟のみ)で、参列者は年配者が多いということを考え斎場と火葬場を併設している『川崎南部斎場』に決めた。
2012年02月24日(金)   No.285 (Himawariのこと)

母のこと2
12時半の電話のとき、これからトイレに行って寝るというようなことを言ってた母。
実際には、深夜になっても話をしていて兄を寝かせてくれなかったらしい。
ここ3日、そんな毎日だったから、兄も疲れきってしまい、母の体も心配して「ねぇ、もう寝ようよ〜。寝てくれよぉ。。」

ようやく母が横になったのが3時。
兄は自分の部屋に入り眠ろうかと思ったところに、『ドサッ』というような音がして驚いて行ってみたら、母は床に落ちていた。。
呼んでみたがほとんど意識がなく、救急車を呼んで、色々手を尽くしてもらったが、意識は戻らない。


私の携帯が鳴ったのは3時半ころ。
「今救急車の中で、ベッドから落ちて・・・、意識がなくて・・」兄の話を聞いても何がなんだかまったくわからない。
落ちて脳しんとうでも起こしたに違いない、すぐに「大丈夫だったよ」と電話がくるだろうと思ってた。

20分くらい待っていたがそんな連絡もなく、こちらから電話を入れる。「意識戻ったの?」
意識は戻らず、もうだめみたいだというような話を兄から聞く。



なんで。実感はもちろんないから、悲しいとかそんな感情はまったくなく、ただなんでなんだということしか頭になかった。


朝の6時過ぎ、母の収容された病院に到着した。
廊下に父と兄が座っていて、母はもうすでに霊安室にいた。
でも自宅で亡くなってしまったため、警察が入っていて家族も廊下に出されてしまったとのこと。

ようやく「いいですよ」と警察に言われ中に入る。
母の顔を見たら、20日に植え込みに顔を突っ込んでしまった時の傷と、今回ベッドから落ちた時の傷が重なって、数箇所にアザができていた。

「痛かったねぇ。。」母の頬あたりを触る。初めて少しだけ「ほんとに母は死んでしまったんだ」と理解して、涙が止まらなくなった。

それにしてもだ。理由がわからない。
わかったところで母は戻らないにしても、何が死因なんだかわからないなんていやだ。
母は、そのまま監察医にまわされてしまった。場合によっては解剖されるのだという。

警察が自宅で調書をとりたいというので皆で自宅へ。
ここでも私たち家族は廊下へ出され、写真を撮られたりするのを待つ。
母の体はここにはなく、部屋も調べられ、とても複雑な心境で、今自分たちに起きてる現実が理解できず呆然とするばかりだった。
2012年02月24日(金)   No.284 (Himawariのこと)

母のこと
2月20日、「転んじゃったよぉ。。」という電話が母からあった。

交通事故で全身打撲、その後骨粗鬆症による圧迫骨折で入院。。とずっと怪我続きだった母。
それでもそのたびに一生懸命リハビリに励み決して寝たきりにならず、お風呂やトイレも一人でやってた。
どんなに痛くても、トイレに行くのに1時間かかろうが、絶対オムツをするのは嫌がった。


そういう母だったので、その日転んでも病院へは行かなかった。

いつもの通院から戻り門から玄関へ向かのう途中、ちょっとした段差に躓いたらしい。
植え込みの中に顔から倒れた。
起き上がることができず、そばにいた父もどうしたもんかと悩んでいたところに、兄が帰宅、ようやく起き上がることができた
その後、私に電話をしてきたようだった。


「頭打ったりしてないの?」「うん、頭は大丈夫。」「骨折は?」「してないよ、全身痛いけど、折れてたらこんなもんじゃないでしょ」

「病院行って調べてもらった方がいいよ」と何度となく言ったけど”また入院させられたらいやだ”と思ったのか、絶対行かないと言ってきかなかった。
父も兄も、ヘルパーさんもみんなが病院を勧めたのに「行かない」と。(-_-;)


終いには「そんなこと二度といわないで」とヘルパーさんを怒ったらしい。

トイレに行くのに1センチづつしか動けないから2時間くらいかかるんだと言う。
「病院がいやならパンツ式のオムツもあるし、人にやってもらうのが嫌なら自分で尿とりパットを取り替えることもできるよ」と言ったけど、それも聞かなかった。

トイレに座ったら、今度は立ち上がれなくなって、兄を呼んで引っ張ってもらってようやく立ち上がれたらしい。。
そうまでして、自分でトイレに行きたいのか。。まったく困った。。兄も頭を抱えていた。


「Himawariから病院にいくように言ってくれ、早く来てくれよ」と兄から電話をもらった。
「今度の休みに行くよ」と言って電話を切った。今思えば、もっと早く行けばよかった。。ほんとに後悔してる。


23日の夜、兄から電話をもらった。
「様子がおかしい」と言う。
「まるで人が変わったみたい」「数日のうちにボケてしまったかのようだ」と。
話してる内容がよくわからない、何度も同じことを言う、眠らない。。等々

電話を母と替わってもらった。
私と話してる途中にそれを忘れて、受話器を置いて別の人と話したりする。
今までの母には想像もできないことだった。


それから会社の上司に急いで電話を入れ、24日の休暇をお願いする。それが10時過ぎ。
明日のしたくをして、そろそろ寝ようかと横になった時電話が鳴った。夜中の12時半。


陽気な調子で母が「今ご飯食べ終わったんだ」と言う。
「随分遅い夕飯だねぇ」と言ったがそれには答えず、携帯の充電をいっぱいしたというようなことを話し、「だからHimawariから電話を切って」と。

???充電をしたからHimawariから電話を切って?なんだそりゃ。。??

意味不明だったけど、「わかったよ、じゃあね。おやすみ」と言ったら、『また明日ね〜〜』とものすごく明るく言った。
未だかつて母から「また明日ね」という言葉を聞いたことはなかった。
母は話はじめも唐突で、「あのねぇ。」で始まり、切るときは「切るよ」ガチャンって人だった。
それが「また明日ね」って、心臓がどきどきした。
はっきり言って、『変だ』と思った。

まぁ、いい。明日会えるわけだから。そして、これから始まるかもしれない母の介護のことを少しだけ考えながら、
「今まで親不孝をいっぱいしてきた分、今度は親孝行できるかな」などと考えた。


まさかその3時間後、母が死んでしまうなんて。そんなことがあるんだろうか。
2012年02月24日(金)   No.283 (Himawariのこと)

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